2012年5月13日日曜日

高尾山古墳発掘の調査報告書

高尾山古墳発掘の調査報告書  7章にわたり詳細分析 今月以降一般頒布を予定  築造年代めぐり2説 最古級性に興味引かれる論争  市教委は「高尾山古墳発掘調査報告書」を三月三十日に刊行。今月以降に一般への頒布が予定されている。市教委では五百部を印刷し、三百部は研究機関や図書館などに送られ、二百部が一般頒布用となる。また、頒布に合わせ市立図書館の郷土史コーナーで閲覧できるようになる。  市教委では、七月二十二日に高尾山古墳に関するシンポジウムを市民文化センターで開催する予定だが、このシンポジウム用に報告書の要約版も作成する。  報告書は七章で構成され、本文だけで二百ページを超える。巻末には、調査時の様子や出土品、遺構などの写真が約八十ページにわたって掲載されている。  【古代の地理】本文第一章では、沼津の古地形と高尾山古墳との関係について解説している。  かつて沼津市域一帯では、西部には海とつながった浮島沼が広がり、東部には「古狩野湾」と呼ばれる海が広がっていた。  その後、古狩野湾では、黄瀬川がもたらす土砂により黄瀬川扇状地が形成され、縄文時代の終わりごろ以降から陸地化していった。このため、縄文時代以前の人々は愛鷹山一帯に暮らし、多くの遺跡が愛鷹山麓から見つかっている。弥生時代以降には、黄瀬川扇状地にも人が住むようになり、当時の遺跡が存在する。  高尾山古墳は、古くから人々が暮らした愛鷹山一帯と、居住地として新たに発展していった黄瀬川扇状地とを結ぶ地点に位置している。また、古墳築造当時には浮島沼が残っていて、その東端は古墳の近くにあり、古墳付近まで、海から舟が入り込むことが可能だったと見られている。  【古墳の形状と出土品】二章から五章までは発掘内容の詳細報告。遺構の写真や実測データ、出土品の一覧などが記載されている。  古墳は全長六二・一七八㍍。二つの四角形がつながった前方後方墳と呼ばれる形式で、前方部は三〇・七六八㍍、後方部は三一・四一〇㍍。古墳を囲む幅八~九㍍の溝(周溝)も見つかっている。後方部から木製の棺が発見されている。  また、無数の土器のほかに、銅鏡一点、勾玉一点、鉄槍二点、鉄鏃(ぞく=やじり、矢の先端)三十二点、やりがんな(工異)一点が出土。銅鏡以下の品は棺の中に納められていた。  土器のうち、周溝の一画から出土した高杯(たかつき)は廻間(はさま)Ⅱ式と呼ばれる型式で、西暦二三〇年代の物と見られている。  また棺の周辺からは、同年代ごろの型式と見られるパレススタイル壺が発見されている。  【出土土器】六章以降は、発掘調査結果について研究者による考察が続く。  出土土器に関しては、幅広い年代の土器が見つかっていることから、古墳築造後も長期間にわたって祭祀(宗教的儀式)が行われていたと推測されている。  また、土器は地元産の形式以外に、北陸や東海西部、近江(滋賀県)、関東などの土器が見つかっているが、畿内(奈良県)の物は見つかっていない。  昨年、清水町の恵ヶ後(えがうしろ)遺跡の発掘調査で大規模住居趾が発見されたことから、同遺跡と高尾山古墳との関連性が指摘されたが、同遺跡からは畿内系の土器が見つかっている。このため報告書は、高尾山古墳と同遺跡は「単純に関連付けられるものではない」との見方を示す。  【副葬品】銅鏡や鉄槍、鉄鏃は古墳に葬られた人の副葬品と見られている。  このうち、銅鏡は上方作系浮彫式獣帯鏡と呼ばれる型式で、「上」「竟」「宜」といった文字が入っていることが確認されているが、他所で見つかっている同種の鏡から推測すると、本来は「上方作竟 長宜子孫」という字句であったと見られる。  この種の鏡は中国山東省の遺跡からも見つかっており、その遺跡と同時期の遺跡からは「永康元年」と記された出土品が発見されている。永康元年は西暦一六七年で後漢王朝後期。このため、高尾山古墳の銅鏡も同時期の二世紀(西暦一〇一年~二〇〇年)後半に当時の中国で作られたものではないかという。  また、高尾山古墳から出土した銅鏡の特徴として割れていることが挙げられる。こうした鏡は「破砕鏡」と呼ばれ、宗教行事の一環として、わざと割られたと見られる。破砕鏡は、三世紀(西暦二〇一年~三〇〇年)後半以降に築かれた古墳からは姿を消しているという。  鉄槍は、その一つが弥生時代の形の特徴を持っており、弥生時代に作られ、その後も使われ続けた品である可能性が指摘されている。また、もともとは剣として作られたが、後に槍の穂先として転用された、との見方もある。槍の柄は木製だったため朽ちて、現存していない。  鉄鏃の一部は、その形状を分析すると、ホケノ山古墳(奈良県)や弘法山古墳(長野県)で出土した鉄鏃よりも後の時代の形状をしていることが判明している(ホケノ山古墳は西暦二五〇年の少し前ごろ、弘法山古墳は二五〇年以降に築かれたと考えられている)。  【築造年代】報告書では、高尾山古墳の築造年代について二つの見方を示している。  第一説は、周溝から発見された高杯の型式などから見て三世紀前半とするもの。  第二説は、鉄鏃の型式などから見て、第一説よりも後の時代だというもの。この場合、周溝の高杯は古墳築造以前に存在した集落のもので、古墳に直接関連するものではない、と見なされる。  第一説の場合、具体的には西暦二三〇年ごろと推定され、第二説では二五〇年ごろとなる。  邪馬台国の女王卑弥呼の墓ではないかとする説がある箸墓古墳(奈良県)は二五〇年ごろの築造であるとされる。このため、二三〇年説の場合、高尾山古墳は、それよりも古いことになる。  二三〇年説に立つ愛知県埋蔵文化財センターの赤塚次郎氏は、いわゆる「魏志倭人伝」に登場する、邪馬台国に対抗した句奴(くな)国が東海地方にあった、と提唱し、今回の報告書の中でも高尾山古墳と、この東海地方の勢力との関係を強調している。  また赤塚氏は、気候変動や河川が運ぶ土砂などによって、当時は人間が利用可能な土地が広がっていったことを指摘。高尾山古墳に葬られた人物は、伊勢湾岸の先進地域から伝わった新しい文化や技術を利用して「スルガの地」で新たな土地を開発し、愛鷹山麓に暮らす「山の民」と浮島沼周辺に暮らす「浜の民」を統合した「偉大な英雄」であった、と推理する。  一方、二五〇年説に立つ纏向学研究センターの寺澤薫氏は、高尾山古墳の全長と各部の長さの比といったサイズバランスが、奈良の纏向(まきむく)古墳群の比と同じ点を指摘。高尾山古墳は、纏向古墳群を持つヤマト地方の勢力の影響を受けている、との見方をし、高尾山古墳の築造は、ヤマトを中心とする勢力が関東など東国に勢力を伸ばす動きの中の出来事、と見なしている。  【科学的分析】第七章では、出土品に対する自然科学的分析の結果が述べられている。  このうち、出土土器の産地に関する分析では、蛍光X線分析により、高杯には東海地方西部で作られたものと、それを模倣して静岡県東部で作られたものとが混在することが判明している。 (沼朝平成24年5月13日号)

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